(質問者)オウム真理教ではチベット語やパーリ語の仏典の翻訳をされていると聞きましたけれど、日本には昔からたくさんのお経があるのに、なぜ今オウム真理教でそのようなことをされているのでしょうか。


(尊師)なぜ日本に漢訳の仏典があるのに、漢訳から訳さないのかということですね。実は、漢訳の仏典についてもある程度の翻訳はしています。
 しかし実際問題として、漢訳だとサンスクリット語が中国語になり、中国語がそのまま移入されると。ところが、この中国語というのはクセモノで、その意味というのは時代によって変わってくると。とするならば、サンスクリット語から中国語、そして日本語という流れはあまりにも訳者の意図が入りすぎているがあまり、本質が理解できないということになるわけですね。
 よって、原典といわれているパーリ語の最も完成された形で残っているスリランカの経典、パーリ三蔵の翻訳、あるいは、その経典の教えから多くの成就者が出、その成就者によって展開されたタントラ・ヴァジラヤーナの教え――これはチベットに伝わるわけですが――その教えを翻訳することによって、世界の仏教の本質というものを探ろうとしてるわけです。
 結論からいうならば、この〝探る〟という言葉は正しくなくいですね。わたしも多くの真理勝者の弟子だった生があります。例えば、例を挙げるならばヴィパッシー真理勝者だとか、あるいはカッサパ真理勝者だとか――わたしの前生では、カッサパ真理勝者のとき、わたしとサキャ神賢は法友だった生もあるわけです。そういう前生の流れから、今日本に伝わっている仏典というものは、衆生の済度に役立っていないというのがわたしの見解です。
 だから、衆生を済度するに必要な経典、あるいはわたしが過去世において習い、そして修習した経典をできるだけ多く翻訳し、それをわかりやすい形で日本語に翻訳し、そして日本の人たちにそれを伝えること、これはオウム真理教の一つの使命だと考えているのです。
(九二年六月二十一日・大阪阿倍野区民ホール)

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