○月×日
光り輝くエネルギーが信徒さんに注ぎ込まれるのと同時に、自分の体に変化が生じた。各チァクラに痛みが生じた。チァクラによって痛みの程度に違いはあるが、ほとんどのチァクラに反応がある。信徒さんのナーディーを詰まらせているカルマが入ってきたのだ。同時に、様々な煩悩的想念が入ってくる。
それからいろいろな色が見え出した。後から尊師にお伺いすると。これは信徒さんのバルドーの色であるということだった。いつも見ている自分のバルドーの色とは違い、やはり濁った感じの色である。
これほどヴィヴィッドに相手のカルマを感じたのも初めてだった。もともと、マハー・ムドラーの成就後はあまり支部活動に携わる機会がなかったこともあるだろうが、やはりアンダーグラウンド・サマディから続いた修行は、自分をよりずっと霊的に敏感にしているようだった。 「何か体験してくれるだろうか?」
こんな思いがよぎった。
自分自身四回のシャクティーパットを受けたが、強烈な体験があったのは三回目からである。一、二回目は修行不足のため、強烈な体験はできなかった。
ナーディーに詰まりがあるということは、その部分から普段エネルギーを漏らしているということである。すると、当然シャクティーパットのエネルギーも漏れるのだ。
事実、後日、シャクティーパットのエネルギーが、受けている信徒さんのチァクラから吹き出しているのを霊視した師の方もいる。
だから、漏れるよりも多くのエネルギーを入れなくてはいけない。しかも十分という短い規定の時間の中で、信徒さんをエネルギーでいっぱいに満たさなくては。時間がない。そう思い、次から次へと、白銀のエネルギーを注ぎ込む。
間もなく、自分のシュスムナー管を何かエネルギーが上がっていくのを感じた。そして、しばらくして、目の前にフラッシュのような光がきらめく。白銀のエネルギーとは別の光だ。クンダリニーが覚醒したのだ。尊師が『原爆覚醒』などでお話しになっているとおりだった。その記述を思い出しながら、「よし」と思わずつぶやいた。シャクティーパットをしていて一番うれしいのが、この覚醒の瞬間である。
○月×日
数人終わったところで疲労が限界に来て、短い休息をとった。以後、短い休息とシャクティーパットの繰り返しが何度か続く。
疲労のため途中で短い休息をとったのはこのときだけではない。だが、これはいいことではない。
眠ってしまうと、煩悩に対して無防備になる。受けたカルマが自分にそのまま根づいてしまう可能性があるからだ。
休息中に低級霊域に意識が飛ぶこともある。カルマを受けた最悪の状態で経験するアストラルなど心地よいものではない。魔物が出てきて自分を苦しめる。その結果、かえって精神的には疲労した感じで意識が戻る。
ところで、シャクティーパットをするまで、これが低級霊域だなあと思う経験はほとんど記憶になかった。それが、ある日のシャクティーパットの後、翌日シャクティーパットを行なう支部まであまり遠くなかったためか、移動後に修行すればいいとついつい甘い考えに負け、車に乗った。
車に乗っているうちに意識が飛んだ。すると、不気味な空間に、なまめかしい女性が現われた。ところが、間もなく、それが魔物に変わり、蛇のような長い尾が伸びてきて、わたしの胴体をぐるぐる巻きにして苦しめる。
その苦しさに意識が戻ったが、シャクティーパット中は、何回もこのような低級霊域を経験した。どれもこれも恐ろしい世界だ。
このような体験をするごとに、信徒さんのカルマのけがれを認識する。ナーディーにけがれのない人は皆無だった。
もちろん信徒さんの中にはある程度浄化されている人もいるが、今死ねば低級霊域を含む三悪趣に落ちる人が少なくない。シャクティーパット後のわたしのアストラル体験がその証明だ。
いや、死後だけではなく、今生自体、これほどナーディーを詰まらせて、煩悩によって苦悩しながら生きているのは大変だろうと思った。
ましてや一般の凡夫はどうだろうかという思いがよぎった。街角で見かける様々な人々。いかに着物や化粧によって綺麗に着飾っていても、その心は多大なカルマによって苦しめられて、肉体も病んでいる。人の外側ではなく、本質を、内側を見つめるようにしないといけないなと思った。
このように、シャクティーパットは、わたしの凡夫や在家の人々に対する認識を大きく変え、〝聖なる哀れみ〟の種子を与えてくれたような気がする。修行によって得た心身の軽快さ、喜悦に慣れっこになったわたしに、成就者と他の状態の違いを再確認させてくれたのだ。
○月×日
こうして振り返ってみると、イニシエーションと海外渡航などのワークの繰り返しでいっぱいの一年だった。しかし、この意味合いは、負荷トレーニングだけではない。
海外渡航のうち、尊師に同行したものが八回もある。これは、尊師が、シャクティーパットによるわたしの変化を常に把握し、適宜助言をし、わたしを見守ろうとする意図があったからだろう。
単に他に厳しいのが慈愛ではない。グルの厳しさの裏側には、深く緻密な配慮が常に存在している。実際わたしもポイントになる時期に的確なアドバイスをいただいた。弟子を引っ張りながらも、その状態や限界を見極めているのだ。
以前の説法で、尊師も、「愛とはその人を限界まで引っ張ってあげることだ。」
と言われていた。これは、真の慈愛と高い成就がこれを可能にするのであろう。こうして、この一年は悪戦苦闘しながらも、自分の修行生活の中で最も充実した時を送ることができたと思う。
グルの深く深遠な慈愛に感謝したい。
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